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Nepal / travel

無尽蔵にある」と根底から思っていると、環境が変わっても、再びそうなるんだなぁと思った話

<「無尽蔵にある」と根底から思っていると、環境が変わっても、再びそうなるんだなぁと思った話> ネパール暮らし、色々開眼させられます。 「世界は自分(の想念)が創っている」といいますが、 詳細を書くとまたなが~~くなるのですが、お金・食べ物・愛・資源・・・まぁ何であれ、 心の底からそれらが「無尽蔵にある」と当たり前に思っていると、 自身の環境が変わろうとも、その「無尽蔵にある」状態に意識的にか無意識的にか、そうゆう環境に作り直しちゃうのだなぁと、周りの子たちを見て思いました。   例えば、食べ物が無尽蔵にあるのが当たり前な環境で育った子は、都市部に来て暮らし方が変わっても、食べ物が無尽蔵にあるスタイルになる。 (畑でとれる食べ物も、スーパーで買える食べ物も違いはなく、「ほら、食べ物はいつだって無尽蔵にあって手に入るんだよ」みたいな) 例えば、お金が無尽蔵にあるのが当たり前な環境で育った子は、暮らし方・環境が変わっても、お金が無尽蔵にあるスタイルになる。 (家族から入ってくるお金でも、自分の稼ぎや、パートナーの収入でも違いはなく「ほら、お金はいつだって無尽蔵にあるんだから心配するなよ」みたいな)   ・・・と、なぜこんなことを書いているかというと、 ハルカとラッセの食べ物をめぐる小競り合いを見ていた そんな無尽蔵組からの言葉で気が付いたのです。 (食べ始めると止まらないハルカちゃんが、自分の分だけでは足りなくてラッセのかつ丼を食べ始めて、それにラッセが「僕のかつ丼がー!」と、2人で食糧危機サバイバルをしていたことから・苦笑) ・・・そうなんだよね。よーーく考えたら、またあとから買えば良い訳だし、「あるじゃん!」なんだよね。 なのに目の前からかつ丼が消えていくとプチ・パニックになる私たち。。。。 よーーーーく考えたらそうなんだけど、根底の物事への設定が、私たちは 「有限」で「消える」で「足りない」 なのだなぁと気が付いたのでした。 や、無尽蔵にあるって思える意識、いいなぁ、ダウンロードしたい!!! から、小さく小さく、日常のささいなことから、 「意識して」、 「あら、たんまりまある♡」を 落とし込んでいきたいなと思った次第です(。・ω・。)ノ♡   Continue reading

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怒りを鎮めていい気分になる言い聞かせのことば

<見ず知らずの人に怒りがふつふつと湧いて「憤怒~~~~っっっ!!!」とこらえられそうにないときは「今日はサンクスギヴィングデーorドネーションデー」と念じてみると良いという話> 昨日から今日にかけて、いかに文化の違いや価値観の違いに感銘を受けたか・それによって幸福な心安らかな気持を味わっているかについて書いているしりから、ハルカちゃんはまたしてもタクシーの運転手さんたちに切れてしまった。 色んな支払いが重なっててんやわんや・待ち合わせの時間通りに間に合わない・忘れ物で走り回るなどしていて、とにかく頭がぷしゅーーっとしていて、頭が40℃前後に煮えていた事もあるかもしれないが、 最近はフルーツ売りのおじさんや、ランドリーのおにいちゃんなど、「ええでええで、負けとくわ~」って、キラキラした目でお得で穏やかなやり取りをするのに慣れていたからか、べらぼうな値段で再びハルカのアグレッションスイッチがオンになってしまった。 「交渉で怒りをあらわにすることほど無意味で、それどころか交渉を失敗させるものはない」 「見ず知らずの人に怒りのエネルギーを浪費してどうする」 「嫌となったら何でも爆発するなんて、5歳児じゃないんだから。何かここで言い返しを・知的でセクシーなワールドワイドにいい女的な返しをするのよ」 と なだめる思考とは反対に 「ふんぬーーーーーーっ!!!!」っで突っ走る怒りの感情。 それに伴って攻撃的になってしまう私。 いつもは押し通していたが、何せ時間もないし 「ええやんええやん、ハルカ、どうしたの、怒りすぎだよ。ここは200と500で手を打とう」とラッセどんもいたしで、ぐつぐつしたままタクシーに乗る。   で、思考の反応の通りで、怒ってもシャウトしても意味無いのだ。 たまたまあったタクシーのおっちゃんたちは、ダミーの様なもので、自分の反応を変えるしかできない。 でもでも、今日の様に頭では十分にわかっているのに、自分が自分の感情に追いつかなくなってしまったとき。 「もうカトマンズなんてだいっきらいや~~~~~~!」 などとシャウトする前に、 シューシュートと息を吐いたら、こう呟いて・もしくは こう言い聞かせるように自分に叫んでみるといいことを発見しました。   「今日はサンクスギヴィングデーや。今日をドネーションデーと思う事にするわ」と。   私の場合は、自分の納得できる金額でなかったことや、そもそもの、不誠実に感じる「つり上げ価格を提示されるということ」に対して、 納得いかない差額や・不誠実さへの怒りをスルーすることに対するくすぶりを、 「今日は私は何にせよ『与える日』なのだ」と思う事で、今日の私はいつもよりも寛容なのだ、と全く逆な思いにシフトすることが出来るのです!!! まぁつけ焼き刀には相違ないでしょうが、いっつもいっつも、実際の値段としては数百円程度の違いに怒って機嫌悪くなってしまうばかりよりかは、その数百円をもってして今日の自分は良いことそしているのだ、と少し自分が良い気持ちになれるように解釈を変えたらいいじゃないか、と思ったのです。 そして、これが実際に自分でも驚きだけれど効くこと! そんな訳でタクシーに乗っているうちに、スイッチはオフになり、友人の住むエリアまでの30分近くのドライブを楽しむことが出来ました。 自分がどう解釈するかで変わることって、結構あるのではないかと思います。 これからも、突如人に対してアグレッシブスイッチがオンに なりそうなときは、こうして「今この状況をよくとらえるいい手立てはないか」と、感情に飲み込まれるだけじゃなくて考えられるようになっていきたいなと思いました。 Continue reading

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追記:「ありがとうの有無から見える文化の違い」

先ほどの「ありがとうの有無から見える文化の違い」についての追記: ネパールに住んで長い、ネパールの文化および宗教を研究している友人によると、ラッセどんの予測回答でほぼ合っているとの事でした。 ネパールの人たちは外国人に対しては「thank you」とはいうけれど、ネパール語のありがとう・タネバーは、本当に本当に「有難い行いだ」という時にしか使わないそうで、普段の親切な行い等は、ただの親切心から行っているものであり、先にも書いた様に、「富める者/出来る者が助ける」のが当たり前なので、そういった当たり前の親切や当たり前とされていることにたいしていちいち「ありがとう」と感謝をしないのだそうです。 タネバーを言う例:: 車に引かれそうになったのを助けて命を救ってくれた時や、サイに猛突進されて激突されそうなのを助けて命拾いした時など。つまり、本当に本当にありがたい、感謝してもしきれない、と言う時に使うそうです。 Continue reading

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タメルシンドローム

ネパールで習った新しいことば: 「タメルシンドローム」 訳:タメル症候群 (タメルとはカトマンズの中心部にある、外国人観光客向けのホテル・レストラン・お土産屋さん等が集中する地区) 意味:「街の持つ『無為・無意味』の魔力に取りつかれて、気が付かないうちに日々が過ぎ去ってしまうこと」 →旅行者がカトマンズはタメルに滞在し、その便利さ(何をするにも超近距離徒歩圏&タクシーで事が済む)・居心地の良さ(バラエティ豊かな食事や本屋・図書館・スパなどのリクレーションが軒を連ねている)から、タメルに長逗留してしまう傾向があるそうです。 ・・・まさに! お互いに体調が悪くて交互に崩していたことや、仕事のためにじっくり机に座ってまとまった時間が欲しかった事や、同じく長逗留&現地に住んでいる人の友達が出来た事もあるけれど、それにしたってタメルに・カトマンズに居すぎだ・苦笑 こんなにカトマンズがいやいやと言っているのに、なんだかんだいてしまうのは、その便利さにあるかも。 ・・・そしてこれはハルカちゃんとラッセにおいては、実はカトマンズだけにとどまらず、コペンハーゲン・東京・フエルテヴェンチューラ等々、どこにいても一緒で、どんなに外が美しかろうが、基本引きこもり傾向にあるのです。。。 ・・・雨季前にトレッキングを終わらせたいのと、ファーストフラッシュが味わいたいから、近いうちに動き出すと思います♬ Continue reading

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日常の小さなことに対して沢山の期待をしていたことに気が付いた話

<日常の小さなことに対して沢山の期待をしていたことに気が付いた話> 昨日はカトマンズを離れる子の見送り会にイスラエルレストランにネパールのイケメンを引き連れて一緒に行ったのですが、その際に自分がいかに日常の小さな色んな事に対して期待を多くしていたかに気が付きました。 そのレストランはネパールにしてはとても大きくて、1フロアは満席・2フロア目も結構な人数で、それに対してフロアスタッフは十分にはいなくて(私目線)。  私たちが付いてからもぞくぞくお客さんがやってくるから、これは人数が増えたらスタッフは手一杯になるだろう・店内奥に座っている私たちにまで気が向かないかもしれないと思い、用があるときは①手をめっちゃ振り②大声で叫んで③ちゃんと気が付くまで大声で呼んでいたのです。 それに対してネパールの子がヨシヨシドウドウといきり立った牝牛をなだめるがごとくに私をなだめてですな。笑 「(そんなに必死になって叫ばなくても)ちゃんと彼らは気が付いているから大丈夫。ちゃんと彼らは来るよ!」と。 (ちなみに私がちょいちょいまた大声で叫び出しそうだったからか、途中から彼がスタッフさんを呼ぶのを代わってくれました・笑) 彼からしたら、一度手をふる/呼べば遅くとも&そうは見えなくても≒わかる返事をしなくともちゃんと来る、という意識の様ですが、そこで分かったのです。 私は「聞こえたら振り向いて『聞こえましたよ、今行きますよ』とわかる合図をし、また速攻でお客のもとへやってくるのがホールスタッフである」と思っていた事に。 ・・・実はこれについてもラッセどんと話していたのですが、デンマーク・イタリア・スペイン・メキシコ・イギリスなどラッセどんがなじみ深い各国の様々な場面でのサービス・ホスピタリティについて聞くと、いかに日本のサービスの精神は期待度(要求度?)が高いかを改めて感じ、またサービス業のみならず、他人に対しての期待というものが、それこそ本当に小さなことからとっても高いことに気が付きました。   ・・・どうりでいちいちストレスになって「ふんぬーーーーっ!!!」ってなる訳です。 ネパールに来てまでも、日本の対人関係における「ベース」をそのまま搭載しているのですもの。 これまで、時間感覚について、そしてこの出先での対応について、自分がいかに人(の行動)に期待をしていたかに気が付いたけれど、きっとこれからももっといっぱいあるんだろうなぁ!!!!   でも、こうして改めて「自分は期待することが多い」ことや、それだとネパールでは通じないこと・ネパール流の在り方があるのだということを体験することとなり、きっとこうやって少しづつ、ネパールの価値観を理解しシフトしていくのだろう!!!・・・・と自分に期待をするのでした笑! や、ここはネパール流に言えば 「まぁ価値観を理解できなくても、なじめなくても、まぁそれでいいんじゃない?どっちでもいいから、そんなことはともかくお茶でも飲もうぜ☕」 になるのかな(^◇^)♪ Continue reading

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「有難う」の言葉の有無から見えた文化の違い

<「有難う」の言葉の有無から見えた文化の違い> 前に何かを手伝ったり、おごられたりしてもありがとうがほぼ一切ないことに関して、それは上位の者に下位のものが何かをするのは当たり前だから、という話を書いた気がするけれど、それを実際に自分が経験すると、 「本当にそうなのだろうか、それだけなのだろうか?」 と気になって、でも聞いていいのだろうか、と思いムンムンとしていて、人生の半分以上を旅の上に暮らしている異文化エキスパートのラッセドンに思い切ってどう思う?と聞いてみました。 (いまさら!笑) (ネパールの人に聞きにくいから、「ネパール人に聞いてもいいと思う?」とラッセどんに聞くという^^;;)    そして帰ってきたラッセどん視点の予測回答がこちら↓   1.「富める者が貧しい者をに手を貸す」のは「当たり前」であること≒出来るものが出来ることをするだけであり、感謝されることでもない、という意識があること (≒特に、富める者の面子を立てる、これくらいの事は私には大したことないのだから、感謝など要らない、という意味) 2.(前記したイスラム教の様にヒンドゥー教も)「分かち合いの精神」があること、特に食べ物においては都市部以外ではお金がかからないもので、収穫したものを文字通り集落の皆で分かち合うことから、食べ物をシェアし合うのが当たり前であり、感謝し合うことではない、という意識があること (例:友人の地方の農村出身の女の子は、いつもシェア様に食べ物をたんまり買い込んでいて、「食え!」、「これも食え!」、「持ってき持ってきー!」と食べ物を分かち合うのをひとつの楽しみとしている) 3.「助け合いの精神」・今日誰かを助けた自分が明日誰かに助けられる、といった助け合いで社会が成り立っているため、誰かを助ける、ということが当たり前であること つまり、出来る人が出来ることをして、誰かを助けるのがごくごく当たり前の社会であるため、感謝を述べる必要がない、という意識がある。 ネパールの場合はカースト制度の影響もあるため確固として言えないが、これに関してはネパールに限らず、後進国と呼ばれる国々では往々にしてこういった傾向が強い。 ・・・のだそう。 ほう。こういった国に初めてなので分からなかったが、そうゆう違いがあったのか! 逆に、日本に住んでいたラッセどん曰く   「日本は必要以上に『ありがとう・申し訳ない・すみません』を使いすぎていると思う、実際はその10分の1でいいと思う笑!」 「日本で感謝の言葉が大事にされるのは、単に親切心でも、助け合いでもなく、それらを含めた「礼儀正しさ」が行動原理の土台として存在しているからで、礼儀正しさで行動したら、同じく礼儀正しさで返すことが「礼儀正しい」とされているし、また無意識のうちでそうあることを期待し合っているから」 なのだそうな。 私は人生のあらかたを日本で暮らしてきたので、ものの見方が日本人としての視点で、だから①このネパール人の感謝の言葉の違いもとても新鮮だったし、それに気が付けなかった理由として②「日本人として当たり前のこと」が染みついていて、異なる視点で見ることが出来なかった/日本の文化・国民性について自分で全く意識できていなかったというこの2点に気が付けたことが、とても目からウロコの経験だった‼‼‼‼ 感謝の言葉の違い、という小さなことであるけれど、この小さな違いを通して異なる価値観に触れたこと、また自分の価値観が明らかになったことがすごく新鮮だし、有難いことだなと思った。(←と、ここで「有難い」と思うのも日本人的な感覚なのだろう) そんな話をしたら 「でしょー! だから旅は面白いんだよー!! 色んなことを知って、自分を知って、色んなことがクリアに会って、どんどん楽しくなってくるでしょ☆彡」 とラッセどん。 なるへそ同意(。・ω・。)ノ♡!! 何だか自分が終わりのない玉ねぎになった気分で どんどん皮がむけていく感じです(⋈◍>◡<◍)。✧♡!! 楽しいね、異文化に暮らすって(´▽`*)!   ・・・全然関係ないけれど、ラッセどんお留守番でお友達と一緒にご飯やさんにいって、満腹にならなかったのでパン屋さんへ行って、「バナナケーキ美味しそうだなぁ、でもどうしようかなぁ」と思って別のパンを買って帰ってきたら、なんとラッセどんも私がご飯をしている間に同じパン屋さんに行っていて、バナナケーキを買っておいてくれたのですーーーー(。・ω・。)ノ♡°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°! ・・・やだっ!!!! わたしたちってばマジで超双子ーーーー💗ーー んもぉぉぉぉう、あはは~~~んーー(。・ω・。)ノ♡!!! って叫んでいたら、ラッセどんを含めお友達にドン引きされました。。。ぐすん。。。。。 Continue reading

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価値観が異なる人と出会うと、自分が浮き彫りになる話

自分と価値観の全く違う人・あり方がまったく違う人に出会うと、自分が浮き彫りになるね。 すっごくオープンな人・途方もなく「与える」の人と出会って、これまで自分は割とオープンな方と思っていたが、通常は閉じているし内向きなんだなと感じました。 これはネパールに来てから自分でも感じていたけれど、自分のアンテナが過敏になって、特に人に対するそれは見た目含めたその人が持っている「なんか分からない・言葉にできないのだけど」な空気感に、偏見に近い位敏感になっていて。 自分の中で居心地が悪い、と少しでも感じる人だと、一瞬一緒にいる・話をするのも居心地が悪く感じて宙に浮いた様な気持ちになったりして。 でも、そんなオープンで周りに自分の持つものを惜しみなく分け与える人って、私が今ここで使っている「オープン」とか「閉じてる」とか、そんな定義すら取っ払って皆無な様にすら見える。全然違う世界で生きてきた、全然違う人類なんじゃないか、同じく人間界で生きてきた人間なのだろうか、とすら思える。 私がなぜ「居心地が悪い」と感じるのかを考えてみると、「狡猾だ」とか「ずるそうだ」とか「悪いやつに違いない」とか得体の知れない「この人は自分に問題を起こすか、嫌な感情を引き起こす何かを仕掛けてくるだろう」とか思っていて、つまりそれは「この人は自分を損得でしかみていない」、「この人によって何かが奪われる」と感じていて、それは「この人は、私が思う様に私を大切に扱う人ではない」と思っているからなのだなと。 でも多分だけど、途方もなくオープンで分かち合いの精神に生きているそれらの人たちは、そんな風に人を思ったりしない、もしくは、「そうゆう人がいるな」と俯瞰的に見て思っても、それを自分の世界に持ち込まない、というかむしろ、そんな人物はその人たちの世界に存在しないのだろう。 私がなぜ上記の様に感じるか、それは「自分に対する不安感」ひいては「自分を信頼しきれていないこと」によるのだと思う。居心地が悪いと感じる人に出会ったとき、「この人は一体何者なのだ」、「なぜこのような人間なのだ」と、私はフォーカスが外側に行ってしまうが、きっとそんな人たちは、もし途方もなく無礼な人に出会ったとしても、自分が感じる事・思う事を、自分自身で大切に出来る事を、意識しなくとも知っているし、それによって言動を選んでいるのだと思う。 誰・何であれ、「(自分で選べるから)自分は大丈夫だ」、と漠然と、氷河の下の部分で知っているのだと。 つまり、この定義すら超えてすらいるような、途方もなくオープンで分かち合いの精神で生きている人は、自己信頼感が途方もなく高く(高い、と書いたけれど、当たり前すぎるほどのその人自身の土台、の様な)、自分で自分を大切にしていて、どうゆうことかと言えば、自分の感じる事や思う事を当たり前に自然に発せられるのだと思う。 つまり、周りに影響されない/周りがどう対応してくるか・どんな人物かは関係無くて、自分がどうあるか・どう対応するか、だけなのだと思う。 ・・・と大仰に書いたけれど、嫌だったら、愛想笑いしたり曖昧にしたりせずに嫌と言ったり、離れたり、そんな日々の小さいことの積み重ねなのだろう。そしてそうしていくうちに、恐らくだけど、自分の世界からなぜか、「居心地がすごく悪い」という人が消えていくのだと思う。 そしてきっと、居心地の良さしかない世界の住人となるのだろう。 今の私は、ハルカの精神の要塞(や、プリンセスっぽく小部屋でとどめておこう)の、閉ざした窓ガラスの内側から用心深く外を見張る事でエネルギーを消耗している感があるが、変えるべきは「ネパールや世界を梁山泊から宮殿に」という外側・環境への見方そのものではなくて、その外側・環境に対する自分自身の在り方・心持なのだと気が付いた。 今しがた「居心地の良さしかない世界の住人」と書いたけれど、気持ちよい素敵な世界に住んでいるから途方もなくオープンでギヴィングの精神の人間になるのではなく、もともとそうゆうあり方だからそんな世界に生きているのであり、そうゆうあり方は自己信頼感・自分は大丈夫だの感覚に基づいているのであり、そんな感覚は日常のほーーんの小さなことから、自分の想いを大事にし、考え・感じたことを発すること≒自分を大切にしていくことにあるのだなぁと思った。 自分を大切にする、と書くと大層なことみたいだけど、自分の快不快・喜怒哀楽と言った人間としてのベースや、さっき書いたけど「自分はこう感じる・思う」を、飲み込まずに伝えることといった、すごくシンプルな事なのだと思う。 ・・・あれ、これこの間も同じことを書いた気がする。 …先にイスラム教へ偏見を持っていたアメリカ人の子がネパールで遭遇した人生を変える経験について書いたけれど、その時に「あれは彼女が経験するべきだったからこそ、わざわざ起きたことなのだろう」なんて話していたのね。 人生には必要なことしか起こらない、というし キルケゴールも 「人生は後ろ向きにしか分からないが、前向きにしか生きられない」 と言っている様に、 私が今ここで出会う人や遭遇する経験も、自分に必要だから目の前に現れているのだろうなぁ。 私からしたら「てめぇら人間じゃねぇな(by[破れ傘刀舟])」という様な、途方もなくオープンで与える精神の人たちの様には、一朝一夕にはなれないだろうけれど、すこーーーーしづつ、すこーーーーしづつ、カメの歩みであったとしても、近づいていけたらなと思う。 「この人は・・・」といちいち勘ぐるのをやめて、 「私の世界には素晴らしく魅力的で素敵な人しかいないの」ということにして、 自分の言動をちょっとづつ変えていってみようと思ったのでした。 ちゃんちゃん! お好み焼き食べたいな Continue reading