Nepal / travel

価値観が異なる人と出会うと、自分が浮き彫りになる話

自分と価値観の全く違う人・あり方がまったく違う人に出会うと、自分が浮き彫りになるね。
すっごくオープンな人・途方もなく「与える」の人と出会って、これまで自分は割とオープンな方と思っていたが、通常は閉じているし内向きなんだなと感じました。

これはネパールに来てから自分でも感じていたけれど、自分のアンテナが過敏になって、特に人に対するそれは見た目含めたその人が持っている「なんか分からない・言葉にできないのだけど」な空気感に、偏見に近い位敏感になっていて。
自分の中で居心地が悪い、と少しでも感じる人だと、一瞬一緒にいる・話をするのも居心地が悪く感じて宙に浮いた様な気持ちになったりして。

でも、そんなオープンで周りに自分の持つものを惜しみなく分け与える人って、私が今ここで使っている「オープン」とか「閉じてる」とか、そんな定義すら取っ払って皆無な様にすら見える。全然違う世界で生きてきた、全然違う人類なんじゃないか、同じく人間界で生きてきた人間なのだろうか、とすら思える。

私がなぜ「居心地が悪い」と感じるのかを考えてみると、「狡猾だ」とか「ずるそうだ」とか「悪いやつに違いない」とか得体の知れない「この人は自分に問題を起こすか、嫌な感情を引き起こす何かを仕掛けてくるだろう」とか思っていて、つまりそれは「この人は自分を損得でしかみていない」、「この人によって何かが奪われる」と感じていて、それは「この人は、私が思う様に私を大切に扱う人ではない」と思っているからなのだなと。

でも多分だけど、途方もなくオープンで分かち合いの精神に生きているそれらの人たちは、そんな風に人を思ったりしない、もしくは、「そうゆう人がいるな」と俯瞰的に見て思っても、それを自分の世界に持ち込まない、というかむしろ、そんな人物はその人たちの世界に存在しないのだろう。

私がなぜ上記の様に感じるか、それは「自分に対する不安感」ひいては「自分を信頼しきれていないこと」によるのだと思う。居心地が悪いと感じる人に出会ったとき、「この人は一体何者なのだ」、「なぜこのような人間なのだ」と、私はフォーカスが外側に行ってしまうが、きっとそんな人たちは、もし途方もなく無礼な人に出会ったとしても、自分が感じる事・思う事を、自分自身で大切に出来る事を、意識しなくとも知っているし、それによって言動を選んでいるのだと思う。
誰・何であれ、「(自分で選べるから)自分は大丈夫だ」、と漠然と、氷河の下の部分で知っているのだと。

つまり、この定義すら超えてすらいるような、途方もなくオープンで分かち合いの精神で生きている人は、自己信頼感が途方もなく高く(高い、と書いたけれど、当たり前すぎるほどのその人自身の土台、の様な)、自分で自分を大切にしていて、どうゆうことかと言えば、自分の感じる事や思う事を当たり前に自然に発せられるのだと思う。
つまり、周りに影響されない/周りがどう対応してくるか・どんな人物かは関係無くて、自分がどうあるか・どう対応するか、だけなのだと思う。

・・・と大仰に書いたけれど、嫌だったら、愛想笑いしたり曖昧にしたりせずに嫌と言ったり、離れたり、そんな日々の小さいことの積み重ねなのだろう。そしてそうしていくうちに、恐らくだけど、自分の世界からなぜか、「居心地がすごく悪い」という人が消えていくのだと思う。
そしてきっと、居心地の良さしかない世界の住人となるのだろう。

今の私は、ハルカの精神の要塞(や、プリンセスっぽく小部屋でとどめておこう)の、閉ざした窓ガラスの内側から用心深く外を見張る事でエネルギーを消耗している感があるが、変えるべきは「ネパールや世界を梁山泊から宮殿に」という外側・環境への見方そのものではなくて、その外側・環境に対する自分自身の在り方・心持なのだと気が付いた。

今しがた「居心地の良さしかない世界の住人」と書いたけれど、気持ちよい素敵な世界に住んでいるから途方もなくオープンでギヴィングの精神の人間になるのではなく、もともとそうゆうあり方だからそんな世界に生きているのであり、そうゆうあり方は自己信頼感・自分は大丈夫だの感覚に基づいているのであり、そんな感覚は日常のほーーんの小さなことから、自分の想いを大事にし、考え・感じたことを発すること≒自分を大切にしていくことにあるのだなぁと思った。

自分を大切にする、と書くと大層なことみたいだけど、自分の快不快・喜怒哀楽と言った人間としてのベースや、さっき書いたけど「自分はこう感じる・思う」を、飲み込まずに伝えることといった、すごくシンプルな事なのだと思う。
・・・あれ、これこの間も同じことを書いた気がする。

…先にイスラム教へ偏見を持っていたアメリカ人の子がネパールで遭遇した人生を変える経験について書いたけれど、その時に「あれは彼女が経験するべきだったからこそ、わざわざ起きたことなのだろう」なんて話していたのね。

人生には必要なことしか起こらない、というし
キルケゴールも
「人生は後ろ向きにしか分からないが、前向きにしか生きられない」
と言っている様に、

私が今ここで出会う人や遭遇する経験も、自分に必要だから目の前に現れているのだろうなぁ。

私からしたら「てめぇら人間じゃねぇな(by[破れ傘刀舟])」という様な、途方もなくオープンで与える精神の人たちの様には、一朝一夕にはなれないだろうけれど、すこーーーーしづつ、すこーーーーしづつ、カメの歩みであったとしても、近づいていけたらなと思う。

「この人は・・・」といちいち勘ぐるのをやめて、
「私の世界には素晴らしく魅力的で素敵な人しかいないの」ということにして、
自分の言動をちょっとづつ変えていってみようと思ったのでした。

ちゃんちゃん!

お好み焼き食べたいな

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